「コトタマ学とは」第二百十四号 平成十八年四月号

   二拍手
 昔、崇神天皇の時、言霊の原理は人々の意識から消えていくような仕組がとられた、と先項で書きました。そして将来、時が来れば再び人々の意識に蘇えるよう色々な施策が行われたこともお話しました。これからお話することも、世の中の色々なところで言霊の原理の表徴として遺されたものです。「あれっ、そうなの!」というようなものがありますから、期待してお読みください。

 先に、神社の拝殿の前で鳴らす鈴の意味についてお話しました。鈴の形は人間が言葉を発している口を形どったもので、その音は口より出る言葉の言葉である言霊なのであり、それが拝む対象の神様の実体なんだよ、と暗示したものでした。それなら御神前で打つ二拍手は何のためか、それをお話しましょう。

 拝殿前の鈴と同様、拍手も「これからお詣りしますから、神様どうかよろしく」と神様の眼を自分の方に向けようとするためのものではありません。言霊のことを表徴した動作なのです。言霊の原理のことを昔は、「フトマニ」と呼びました。漢字を当てますと「太占」または「布斗麻邇」となります。フトマニのフトとは二十の意味であり、マニは言霊のことです。全部で二十の言霊ということになります。二十個の言霊が何故言霊全体の原理という意味になるのでしょうか。

 五十音図をご覧ください。横の十行のうち濁点が付けられるのはカサタハの四行です。他の行には濁点は付けることが出来ません。濁点を付けられるカサタハの四行の音は全部で二十あります。この二十個の音が言霊五十音全体を代表する音とみなして、二十個の言霊(マニ)で言霊全体の原理・法則の意味に使っているのです。何故カサタハの四行が言霊全体を代表することになるのでしょうか。

 再び五十音図をご覧下さい。音図に向って一番右の行は母音で示した「私」の内容です。反対の一番左の行は半母音で示される「あなた」の内容です。この「私」と「あなた」の間に八つの父韻という眼に見えぬ火花が飛び交うと現象が起こることは今までにお話して来ました。この八つの父韻は実は陰陽、夫婦、作用・反作用の関係にある二つ四組の父韻なのです。チイ、キミ、シリ、ヒニの四組です。四組のどれも、濁点が付くものと付かないものの組み合わせになっています。その各々が陰陽、作用と反作用の関係にあるわけです。

 言霊を勉強する立場からみますと、以上の濁点が付けられる四行、二十音の言霊が理解出来ますと、言霊に関する全部の法則を理解することが出来たことになります。このカサタハの二十音が言霊五十音の全体を代表する音だと昔の人が考えた理由がここにあります。

 さて以上のようにお話しますと、もう二拍手の意味はお分かりのことと思います。片手で五本の指、両手で十本、それが二拍手で二十本。この拍手でフトマニの二十を表徴していることになります。二拍手とは言霊の原理全体を現わす動作なのです。

 古代の日本には言霊の原理はありましたが、哲学用語はありませんでした。言霊を知るということは物事の真実の姿そのものを知ることになりますので、その他の物事の概念的説明の必要がなかったためでしょう。ですから言霊の原理が隠されてしまった時代、その原理を暗示するためには、自然現象や人間の動作などの形として示す方法がとられたものでありましょう。神前の二拍手もその一つなのです。

 神社の御神前で二拍手するということは、祈願する礼拝の対象である神様とは、実は人間の精神の究極の構造である言霊布斗麻邇なのだよ、ということを示そうとして昔の人が後世に遺したメッセージなのであります。また同時にその二拍手とは、神様の実際の姿である五十音言霊の原理と祈願する人の心とのリズムが合致して、願い事が成就するようにとの祈りの方法ともなるのです。

 以上、御神前での二拍手の意味をお分かりいただけたでありましょうか。ちなみに、フトマニのマニは日本語であると同時に世界語でもあることをお話しましょう。日本神道で麻邇といいます。仏教では摩尼と呼びます。観世音菩薩が手に持つ円満玲瓏な摩尼宝珠とは言霊のことを表徴したものです。キリスト教旧約聖書にはマナmannaとあります。「マナは神の口より出ずる言葉なり」と記されています。ヒンズーでは「マヌ」と呼ばれます。ヒンズー教の最高法典をマヌの法典といいます。

 二拍手の意味の説明について、もう一つ付け加えておきたいことがあります。八つの父韻である意志のバイブレーションが陰陽二つ一組で、全部で四組(チイ、キミ、シリ、ヒニ)であると申しました。この八父韻について「古事記」では最初の章「天地のはじめ」に出て来ます。その神様の名前を見ますと、一組が陰陽、作用・反作用の働きである事が明示されているのに気付きます。ご参考のためにお話しておきます。

 ……次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神(言霊チ)、次に妹須比地邇(いもすひぢに)の神(言霊イ)、次に角杙(つのぐひ)の神(言霊キ)、次に妹生杙(いもいくぐひ)の神(言霊ミ)、次に意富斗能地(おおとのぢ)の神(言霊シ)、次に妹大斗乃弁(いもおおとのべ)の神(言霊リ)、次に於母陀流(おもだる)の神(言霊ヒ)、次に妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)の神(言霊ニ)。

 以上が言霊の創造意志である八つの父韻にあたる「古事記」の神名です。作用・反作用の反作用に当たる神名に皆「妹(いも)」の字が頭に付いているのがお分かりだと思います。二つ一組は陰陽、夫婦の関係にあることをはっきりと示しているのです。それぞれの神名がどうして八つの父韻を指し示していることになるのかは、人間の心の中の動きを説明しなければなりません。煩雑になるのを省くためにも、今は触れないことといたします。

(次号に続く)

   日本と世界の歴史 その十四

 人類の第一精神文明時代、それに次ぐ第二の物質科学文明時代の一万年の歴史が、ここに於て大きく転換して、人類の第三文明時代に入ろうとする時、その第三文明創造という重大な使命を担う三つの存在――日本の皇室、ユダヤ民族の予言者、それに言霊の会が如何なる状態にあるか、をお話して来ました。そこでこの三つの存在とその働きがお互いにどの様に絡み合って行くのか、その先に何が見えるようになるのか、が今月号の話となります。

 このようにお話を進めてまいりますと、賢明な読者の中には現世界の成行とそのゴールとを推察される方もいらっしゃることと思いますが、しかし、これよりお話申し上げる日本と世界の動向は小説家が好き勝手に書く歴史小説でも、新聞記者のスクープでもありません。また霊能による「当るも八卦、当らぬも八卦」的な占(うらない)でもありません。人類の文明創造という意図により、「人の心とは何か」を完璧に自覚・表現したアイエオウ五十音言霊の原理に基づく皇祖皇宗の御経綸から見て「必ずこうなる」という宣言であります。人間に与えられた精神の全機能を以ってまとめ上げられた、計算し尽くされた結果であります。この事に関して、歴史の予言というものが如何なるものなのか、を御理解頂くために当会発行の「古事記と言霊」の後編「歴史編」の「歴史創造の心」の一説を引用することといたします。

 『度々言うことであるが、世界の各地でてんでばらばらに営まれる人々の行為の合計がそのまま世界の歴史であるのではない。天津日嗣天皇(あまつひつぎすめらみこと)の文明創造の経綸即ち人間を人間たらしめている言葉の限りなき発展が人類の歴史である。それ故に天津日嗣である、人間という種(スピーシー)の究極の精神原理である布斗麻邇の自覚に立つ時、言い換えるならば人間精神の実在体であるアオウエイ五母音の重畳する構造を確認し、その実在より発現する諸実相の色相変化の原律である八父韻の認識を完成する言霊イの創造親神の立場に立ち、言霊アである大慈悲の心より人類の歴史を見る時、我とは人類であり、人類の歴史とは我の歴史に他ならず、それ故に世界の歴史の流れの中で、過去にあり現在に起りつつ歴史現象のすべては、永遠の生命を享け継ぐ我自らが“そうあれ”また“かくあれ”と決定し創造し来ったものであることが明らかに了解されるのである。それ故にこそまた世界人類のすべての声を自己の生命全体で聞き、これに新しい生命の息吹を与えて言霊原理に則り“かくあれ”と決定し宣言し、その如く実現することが可能である。宣言は当為であり、宗教に於ける基本要求などではないからである。以上の如き世界歴史経綸の大慈大悲の心を天津日嗣の大御心と呼ぶのである。』(「古事記と言霊」三四六〜七頁)

 前書が長くなりました。結論に入ることにしましょう。第二のキイ・ワードであるユダヤが意図する世界の国家、民族の再統一とは具体的に言うとどういう事なのでしょうか。簡単に表現すれば政治体制に於いては世界民族の民主政治化であり、経済的に言えば、全国家が一経済圏としてまとまることであり、また全国家の報道の自由化でもある。とするならば、ユダヤの全世界統一の事業は略々完成に近づき、残るのはその仕上の仕事だけということが出来るでありましょう。イラクは内紛は残るものの以前の独裁国家に戻ることは有り得なくなりました。イランは新しい大統領が民族の自主性を煽っていますが、その勢いは先が見えています。北朝鮮は中々頑張っていますが、中東情勢が沈静化すれば、唯一国家だけでは、世界の流れにそう長い間反抗し続けては行けなくなりましょう。人口十三億人の中国は最近の経済発展の勢いに乗って世界の中の“中国“の夢もう一度と張り切っていますが、一たび染み込んでしまった経済という名の“蜜“の甘さは何処までも付きまといますから、その内に全世界の経済の渦に巻き込まれて行くことは逃れられぬ所でありましょう。

 このように見て来ますと、物質科学の完成の成果を利用したユダヤ民族の世界再統一は完遂間近であり、その見極めまでに左程の長年月は必要としないでありましょう。そして、ユダヤのその使命の仕上げの時間の中で、第三のキイ・ワードを冠した「言霊の会」では果たさなければならぬ仕事が一つ残っています。それは何か。明治天皇以来、諸先輩による言霊布斗麻邇の学問復興の研究・努力によって不死鳥の如く甦った言霊学の全貌を、現天皇並びに皇室に報告申し上げねばならないことであります。これを古神道で復命(かえりごと)と申します。

 第二のキイ・ワードであるユダヤが人類の第二物質科学文明を完成し、近い将来、その物質科学の成果によって世界の再統一を完遂した暁、彼等に課せられた使命の完了を報告するために日本に上陸して来たとして、日本の何処へ行くか。それは彼等の始祖モーゼにその民族三千年の使命を委託した日本の神足別豊鋤天皇より続く皇統を継承する日本の天皇の所より他には有り得ないことでありましょう。そこにはユダヤがその使命を委託された根本原理である言霊布斗麻邇の象徴「三種の神宝」―― しかも彼等の手には既に失われている ―― その神宝と同意義の三種の神器(鏡・珠・剱)が厳然と保持されている日本皇室の所へ来るに違いありません。

 「形而上を道と謂い、形而下を器と謂う」(易経)とあります。ユダヤが彼等の三千年の成果を引っ提げて日本皇室に報告に来るとしても、その日本の皇室には、三種の神器の形而上の「道」はなく、ただ形而下の器があるにすぎません。日本の天皇も、皇室の何方(どなた)も、宮内庁の祭官の誰一人としてその「道」の如何を知らないのです。これではユダヤ三千年の労苦の成果に対して報いる何らの術(すべ)を持たないこととなります。彼等の功績を労(ねぎら)い、彼等の魂を浄(きよ)め(これを最期の審判と呼びます)、その上で彼等に新時代に於ける新しい役割を与えることは不可能でしょう。三千年にわたる予言者歴代の労苦によって人類の第二物質科学文明を完成させ、その成果によって世界各国を再統一し、任務の完了を報告するために始祖の魂の故郷である日本に上陸することはユダヤの仕事です。彼等を迎え、受け入れて、その永年の労を讃え、その上で彼等の奉持するカバラの原理は生存競争時代にのみ有効な原理なのであり、これより迎える新文明時代には用のないものであることを率直に伝え、生まれ変わって新しい真理を会得するよう指導し、その上で新しい任務を与える事は日本民族の使命であります。

 さて此処で一冊の本を取上げてみることにします。「宮中賢所物語」(ビジネス社発行)と表題にあります。宮中三殿、即ち賢所、皇霊殿、神殿の三殿に五十七年間御奉仕し、この度退任された高谷朝子さんという御婦人が自分の体験を物語った本であります。今まで菊のカーテンの向う側にあって、決して国民に知らせることのなかった場所の中の奉仕の仕事が明らかにされた事は皇室の“平民化”の現われでありましょうか。一女官の体験記でありますから、宮中三殿の構造とか、祭祀の内容、またそこにどのような祭器があるか、等のことは何一つ語られてはおりません。けれど一読して明らかに知ったことは、昭和二十一年、昭和天皇が「古事記・日本書紀の神話と日本皇室とは何の関係もない」と現人神(あらひとがみ)天皇という立場を放棄された後も、日本古神道に基づく神道信仰の一切は以前そのままに踏襲され、天皇家の信仰として継承され実行なされている、ということが確認されたのであります。とするならば、「宮中の“特別な場所”」といわれる賢所に昔から保存されている種々の器物や記録も、昔そうであった如く秘存、保管されてあると言ってもよいでありましょう。これは重要な事柄であります。日本ばかりでなく全世界人類の秘宝であるアイエオウ五十音言霊布斗麻邇の原理の象徴物である三種の神器の形而上(道)と形而下(器)とが、二千年前そうであった如く一体として認識・確認される可能性が出て来た事となります。これは日本・世界にとって最高に慶賀すべき事態の到来を意味します。これは人類にとって一切の価値観、歴史観の転換の発端となるからであります。

 先にお話しいたしました如く、ユダヤが世界統一を完成・完遂するまでに、天皇、皇室または外戚の何方(どなた)かに、言霊布斗麻邇の学問を復命(かえりごと)申上げること、これが当言霊の会の責務であります。この事業が皇祖皇宗の新文明創造上の最も重要な仕事ということが出来るでありましょう。この名もほとんど知られていない小さな会が、人類の文明創造の歴史の転換・推進の鍵を握っているなどということは、全く夢の如き絵空事と思われるかもしれません。けれど歴史を転換し、更なる創造を続けて行くための主体性(鍵)をしっかりと握り、歴史創造のゴーサインのベルを押す任務は世界で唯一つ、この言霊の会が握っていることを忘れてはならないでしょう。出来得べくば、そのベルを自らの責任に於いて押し得る人が三人集まれば最上です。天の御中主の神(ウ)、高御産巣日の神(ア)、神産巣日の神(ワ)三柱を造化三神と呼ぶように、ウ<ア・ワは物事の始めであり、老子はこの事を一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず、と数霊を以って説明しています。

 一人や二人、三人程の言霊学の解説者を揃えたところで、如何程の力が出せるのか、と訝る方もいらっしゃるかも知れません。しかし言霊学の自覚者の言葉は単なる言葉ではありません。言霊のことを一音で霊といいます。霊が走る、(駆る)で霊駆る即ち光となります。光の語源なのです。言霊原理に裏打ちされた言葉は心の光りなのです。人の心の闇を照らし、一瞬にして闇を消し去る力があります。二千年以前、崇神天皇が社会の表面から言霊の原理を隠没させたことによって地球上に暗黒の地獄を招来しました。ただそれだけの変化が地球上を生存競争の坩堝(るつぼ)と化しました。今度は逆にこの地球に高々と言霊の言葉の灯火を掲げれば事足ります。それが第三文明時代の幕明けとなるのです。

 以上、簡単に言霊原理より見た日本と世界の歴史の将来について言及いたしました。御理解頂けたでありましょうか。前にもお話したことですが、歴史とは大自然の中に人為的な社会を打ち立てて行く道です。朝が来れば東から太陽は昇ります。誰が何と言おうが、言うまいが、太陽は昇ります。それを見ている人に関係ありません。それが大自然の営みです。けれど人間社会の歴史は違います。「こうなるよ」と人が言ったとしても、人が努力してそうなるよう務めなければ、実現しません。ですから実のところ、人間社会の歴史の将来について予言するということは愚かな行為なのです。何故ならば、「こうなるよ」と予言すれば、それを聞いた人は「あっ、そうなるのか」と受け取って、それで終わってしまうでしょう。これでは予言はしなくても同じだ、ということになります。そうなると知りながら地球上の人類の将来と日本人の使命についてお話申上げましたのは、現在迎えている人類の文明の大きな転換というものが、人類の歴史を今までの如く見立てて、それに対する態度を自ら変革する事を怠るならば、単に第三文明時代は到来しないばかりでなく、人類のこの地球上に於ける生存も危くなるという切羽(せっぱ)詰った状態に今の人類が置かれているからであります。私達がこれから建設しようとする人類の第三文明が生命文明と名付けるべき心と肉体、精神と物質双方の原理に基づく平和で豊かな楽しい文明時代であり、そのためにも声を大にして私達の主張を予言として世界中の人に伝えようとするのと同時に、若しこの文明建設に失敗するならば、人類全体の次世紀への生存の可能性が無くなることになるとの警告の意味をも持っているのです。そして人類が今までに経験したことのない危機を未然に防ぐ手段が、これまた私達が申し述べる道以外には世界に何もないのだ、ということを伝えたいと思うからでもあります。

 第二文明から第三文明への転換をお話する三つのキイ・ワードとして日本皇室、ユダヤの予言者、それに言霊の会の三つを挙げ、その三つのキイ・ワードの関係を動かす主体性が第三の言霊の会にあること、その主体性となる活動の原動力が言霊の光の言葉であることをお話しました。そこで「日本と世界の歴史」の中の肝心要となる光の言葉についてお話をしましょう。前に古事記の先天図と、日本書紀の先天図の構図の違いについてお話しました。古事記は言霊学の勉学に適して母音から説き起こし、書紀は言霊学を会得した方が、その活用によって禊祓を実行するに便利なように父韻から説き起こしています。如何なる人間の思考に当っても先天十七言霊は同時活動しますから、古事記・日本書紀双方共に矛盾はありません。

 さて、伊耶那岐大神は禊祓を実行するに当り、「上つ瀬(ア段)は瀬速し、下つ瀬(イ段)は弱し」と言って、立ち止まらなければなりませんでした。禊祓の実行に当り、言霊イの言霊原理をいくら振りかざしても、どうすることも出来ないと知ったからです。そのことを大禍津日神といいます。またア段でも矢張り不適当であると知りました。そのことを八十禍津日神と申します(図参照)。八十とは図の百音図から母・半母音を除いた八十現象音言霊のことです。上半分は極楽、下半分は地獄を示します。このように見ますと、この図上の行動は正しく宗教信仰の活動だと分かります。人は自らの不合理窮まる生活を反省し、自身の日常が地獄の様相だと知り、にもかかわらず、自らがこの世の中に生きていることの不思議さ、奇特さに気付き、生きているのではなく、生かされていること、自分を生かして下さる大きな慈愛の存在(神・仏)を知ることで感謝・報恩の生活に入ります。しかし、信仰の生活とは地獄がなくなり、極楽だけの生活ではありません。その途中の、地獄の自分を極楽に移そうとする努力の生活です。これでは禊祓は不可能です。光を偶に垣間見るだけです。そこで古事記は「この二神(ふたはしら)はその穢(きたな)き繁(し)き国に到りし時の汚垢によりて成りませし神なり」と告げているのです。

 ではどうしたらよいのか。古事記は言霊学の教科書でありますから、禊祓の方法と同時にそれを修得する方法をも説いています。大禍津日、八十禍津日の神名を御覧下さい。大禍・八十禍の後に津日が付けてあります。大と八十の理だけでは禍で禊祓には向かないが、しかし、その行を努力して突き詰めて行く事によって光の世界に導かれるよ、と書いてあります。大禍である言霊原理をよくよく心中に五十音言霊とその動きについて刻みつけ、八十禍である地獄と極楽、短山と高山の間を行ったり、来たりしながら、自らの心を反省し、空想と実相とを見極めて行き、大禍と八十禍を徹底的に見極めるならば、その間に八つの父韻の内容を知り、人は必ずや光の世界に躍り出ることが可能なのだよ、と教えているのです。その修行の行為を「次にその禍を直さむとして成りませる……」と古事記は教えています。先師小笠原孝次氏はこの事を「光は求めなければ見ることは出来ないのだが、求めている間は見ることが出来ないよ」と教えてくれました。真相をよく知った言葉であります。

 暗黒苦悩の世界に言霊原理に基づいた光の言葉が発せられる時、一瞬にしてその闇は消え、物事は納まる所に納まり、黄泉(よもつ)国の文化はそのままに世界人類の文明の中に吸収され、その使命を果たします。人類の歴史とはこの光の言葉そのものの自己発展の記録であります。百二十億光年の宇宙の彼方の星をスバル望遠鏡がとらえたと最近報道されました。人類は言霊原理に基づいて、自らの本体である宇宙全体にまたがる生命の王国を建設するために永遠の努力を重ねる生物なのです。

(終り)